畜産振興をめざすブリーダーとしてスタート

人々のあくなき挑戦が不毛の大地を緑豊かな農場に変え、次世代の環境技術を生み出すまで。小岩井農場の120年余の歴史を紹介します。

畜種牛の生産供給

岩崎久彌は、明治初年来の国策である殖産興業の一翼を担い、日本人の体位向上に資するために畜産振興を目標に定めます。種畜の生産供給(ブリーダー事業)を主とし、その餌となる作物の耕作を行なうことを(畜主耕従)経営方針としました。オランダなどから輸入した乳用種牛をもとに品種改良を開始。全国の種畜場・牧場などに種畜を供給しました。これが現在に続く、畜産事業の始まりです。小岩井農場は、海外から優秀な種畜を輸入し、品種改良を行うと共に全国に優秀な血統の牛を販売することで、日本の酪農の発展に寄与したのです。

大正13年(1924年)に輸入された種牡牛「サー・ロメオ・フェーン号」

我が国の乳業事業をリード

小岩井農場を語る上で欠かせないのは、新鮮な牛乳とそれを用いた乳製品ですが、これらが事業として開始したのもこの時期です。飲用乳、バター、チーズの製造技術の確立を図り、我が国の乳業事業の発展に貢献しました。

バター製造に使われた「木製バターチャーン」

農場の暮らし(私立小岩井尋常小学校)

農場の経営が拡大する中で、農場員もその子弟も増え続けていきました。これに対応するため、久弥は、明治37年(1904年)私立小学校「私立小岩井尋常小学校」を設立しました。昭和25年(1950年)に公立化されるまで、全国でも珍しい農場立の小学校として、数多くの従業員の子弟が卒業しています。親子二代、三代で農場に務める卒業生も少なくありませんでした。久彌自身も小学校に深い関心を持ち、子どもたち一人ひとりを覚えていて、農場訪問の際は全員にノートなどの土産を手渡したそうです。

私立小岩井尋常小学校

宮沢賢治と小岩井農場

小岩井農場に魅せられた文学者として、忘れてはならないのが宮沢賢治です。賢治は、農場とその周辺の景観を愛し、しばしば散策しています。とくに大正11年(1922年)5月の散策の模様は、詩集『春と修羅』内の長編詩「小岩井農場」で紹介されています。賢治は、故郷岩手をモチーフとした理想郷〝イーハトーブ〝を作品の中に登場させていることでも知られていますが、小岩井農場は、賢治にとっては実在するイーハトーブ世界だったといえるかもしれません。さらに、農学校の教師でもあった賢治は、農場における石灰による土壌改良にも強い関心を示していたそうです。

童話「狼森と笊森、盗森」に出てくる狼森

小岩井農場が登場する作品
童話:「狼森と笊森、盗森」「おきなぐさ」「耕耘部の時計」
詩:「小岩井農場」「秋田街道」「遠足統率」「春谷暁臥」「母に云ふ」
文語詩:「塔中秘事」「青柳教諭を送る」

サラブレッドの生産

乳用牛のブリーダー事業に加え、当時の小岩井農場の経営を支えたのが、競走馬の生産を核とする育馬事業です。イギリスからの輸入された優秀な種牡馬から生まれた小岩井農場の競走馬たちは、昭和初期に創設された日本ダービーをはじめとする戦前の競馬界で燦然たる成績を挙げています。育馬事業は第二次世界大戦後に終息しますが、小岩井農場が残した名馬の血脈は、北海道や東北の牧場に散らばり、現在も数多くの活躍馬を出し続けています。

昭和16年(1941年)小岩井農場産 セントライト号 日本初の三冠馬となる

  • 宮沢賢治(みやざわ・けんじ)

    (1896~1933)
    岩手県生まれの詩人・童話作家。花巻で農業指導者として活躍しながら、創作活動を続けた。地元岩手をモチーフとした理想郷"イーハトーブ"を舞台とした童話や、岩手の自然や農民の生活を描く詩を残している。童話「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」「注文の多い料理店」、詩集「春と修羅」などが有名。小岩井農場は、『注文の多い料理店』所収の「狼森と笊森、盗森」、『春と修羅』所収の「小岩井農場」などの作品中で、描かれている。

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