荒野の開墾

人々のあくなき挑戦が不毛の大地を緑豊かな農場に変え、次世代の環境技術を生み出すまで。小岩井農場の120年余の歴史を紹介します。

農場を守る防風林

開設当初、小岩井農場は一面の荒野で、木はほとんど生えていませんでした。水はけの悪い湿地帯で、吹き晒しの西風により、夏には冷たい風が吹き、冬には吹雪となって、作物の生育を妨げたのです。小岩井農場は、まず、この風を防ぐための防風林の植林や土塁を築くところから、事業を始めなければなりませんでした。この植林は後に農場面積の三分の二を目標として、スギ、アカマツ、カラマツなどの木材を産出する、本格的な山林事業へと発展していくことになります。

明治期の植林地

火山灰地を改良

土地の改良も同時に行われました。火山灰地特有の強い酸性の土壌を、当時最新技術だった石灰散布によって中和するとともに、水はけの悪い湿地帯には暗渠を設置して排水を確保することで、作物の生育に適した環境を整備していったのです。これらの基盤整備はその後、数十年にわたって続けられました。いま、小岩井農場に広がる山林や緑の牧草地は、こうした不断の努力の積み重ねによって、作られたものです。

西洋式農法の積極導入

当時、明治政府は食料の増産のために、農業の近代化に力を入れていました。イギリス留学の経験を持つ井上も、機械化、効率化された西洋式の大農場を実現することで、日本の農牧業に貢献しようと考えていたのです。小岩井農場の開拓や牛馬用の飼料作物の耕作においては、ハロー、播種器、レーキといったヨーロッパ式の進んだ農機具が積極的に取り入れられ、明治27年(1894年)には、蒸気機関の力でケーブルにつながれた犁(すき)を引くスチーム・プラウというイギリス製の大型機械も導入されています。

明治41年(1909年)、日本で初めて導入された農業用トラクター(蒸気式)

困難の連続

しかし、これらの努力にもかかわらず、開設から数年経っても、小岩井農場の経営は多難なものでした。土地の生産性が低く、井上らに農場経営の経験がなかったことや、明治のこの時代にまだ畜産物の流通市場が発展していなかったことなども、経営不振の原因でした。

岩崎家による経営へ

井上は、鉄道庁長官を退任した後も汽車製造会社の設立に奔走するなど、終生の仕事である鉄道事業が多忙を極めていたこともあり、経営改善の見通しが立たない農場事業を手放すことを決心します。明治32年(1899年)、小岩井農場の経営は、井上から岩崎家に引き継がれます。そのとき三菱を率いていたのは、創業者岩崎彌太郎の長男の岩崎久彌です。もともと動物好きで農牧業などにも造詣が深かった久彌のもとで、小岩井農場は新たな発展を遂げていきます。

  • 岩崎久彌(いわさき・ひさや)

    (1865~1955)
    三菱の創業者、岩崎彌太郎の長男として現在の高知県に生まれる。明治27年(1894年)、三菱合資会社設立と同時に社長に就任、三菱の第三代社長となる。在職20年余、彌之助の展開した諸事業を発展させ、今日の三菱の根幹を築く。明治32年(1899年)、井上勝より小岩井農場を継承。経営基盤の充実を図り森林の創出・充実を目指すとともに、牧畜中心の運営を推し進めた。

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