HISTORY
小岩井農場のあゆみ創業者の想い
1888
明治中期岩手山麓に広がる不毛の原野
1888年(明治21年)6月12日。この日、盛岡を訪れていた明治政府の鉄道庁(当時は鉄道局)長官、井上勝は、眼前に広がる岩手山の南麓に広がる風景に目を奪われていました。それは、木もまばらな不毛の原野でした。奥羽山脈から吹き降ろす冷たい西風のなか、ススキや柴、ワラビなどが散在する火山灰地を前に、井上は、この荒れ果てた土地に大農場を拓くという、かつて誰も抱いたことのない夢を抱いたのです。
鉄道の父
井上勝は、日本の鉄道の父と言われる人物です。幕末の動乱期にイギリスに密航した伊藤博文、井上馨ら5人の長州藩士、いわゆる長州ファイブの一員で、近代土木技術、鉱山学などを学びました。帰国後は、1872年(明治5年)の新橋-横浜間の日本最初の鉄道敷設を始めとして、東海道本線、東北本線など、数々の鉄道工事で陣頭指揮にあたり、日本の鉄道事業の基礎を作ったのです。盛岡を訪れたのも、東北本線の延伸工事視察のためでした。
大農場への思い
岩手南麓に広がる荒地を前に、井上の胸に去来したのは、長年、鉄道敷設事業に携わる中で、数多くの「美田良圃(びでんりょうほ:美しい田と良い畑)」を潰したことに対する悔恨の念だったといいます。このような荒野が手付かずで放置されているのであれば、せめてそれを開墾して大農場を拓くことで、美しい田園風景を損なってきたことの埋め合わせをしたい。それこそ、国家公共のためであり、自分がなすべき事業ではないか。井上はそう考えたのです。
1891
小岩井農場の誕生
井上は、この構想を岩崎彌太郎のもとで三菱を支えていた小野義眞に打ち明け、助力を依頼します。当時、三菱社は、彌太郎の死後、実弟の岩崎彌之助が第2代社長に就いていました。小野義眞は、早速、井上と彌之助を引き合わせます。国家公共のため、荒地に農場を拓きたいという井上の高邁な願いに感銘を受けた彌之助は、その場で出資を快諾したといいます。こうして、1891年(明治24年)1月1日、井上が場主となり小岩井農場が開設されました。小岩井という名前は、小野、岩崎、井上、3人の名字から1字ずつ取って作られたものです。
荒野の開墾
農場を守る防風林
開設当初、小岩井農場は一面の荒野で、木はほとんど生えていませんでした。水はけの悪い湿地帯で、吹き晒しの西風により、夏には冷たい風が吹き、冬には吹雪となって、作物の生育を妨げたのです。小岩井農場は、まず、この風を防ぐための防風林の植林や土塁を築くところから、事業を始めなければなりませんでした。この植林は後に農場面積の三分の二を目標として、スギ、アカマツ、カラマツなどの木材を産出する、本格的な山林事業へと発展していくことになります。
火山灰地を改良
土地の改良も同時に行われました。火山灰地特有の強い酸性の土壌を、当時最新技術だった石灰散布によって中和するとともに、水はけの悪い湿地帯には暗渠を設置して排水を確保することで、作物の生育に適した環境を整備していったのです。これらの基盤整備はその後、数十年にわたって続けられました。いま、小岩井農場に広がる山林や緑の牧草地は、こうした不断の努力の積み重ねによって、作られたものです。
困難の連続
しかし、これらの努力にもかかわらず、開設から数年経っても、小岩井農場の経営は多難なものでした。土地の生産性が低く、井上らに農場経営の経験がなかったことや、明治のこの時代にまだ畜産物の流通市場が発展していなかったことなども、経営不振の原因でした。
-
本部第二倉庫
1898年以前 建設 - 旧育牛部倉庫 建設
1899
岩崎家による経営へ
井上は、鉄道庁長官を退任した後も汽車製造会社の設立に奔走するなど、終生の仕事である鉄道事業が多忙を極めていたこともあり、経営改善の見通しが立たない農場事業を手放すことを決心します。明治32年(1899年)、小岩井農場の経営は、井上から岩崎家に引き継がれます。そのとき三菱を率いていたのは、創業者岩崎彌太郎の長男の岩崎久彌です。もともと動物好きで農牧業などにも造詣が深かった久彌のもとで、小岩井農場は新たな発展を遂げていきます。
- 家畜の育種改良(ブリーダー事業)に着手
- 牛乳の市販を開始
- 植林造成を本格的に開始
畜産振興をめざす
ブリーダーとして
スタート
1900
明治後期1901
- オランダよりホルスタイン種牛、
イギリスよりエアーシャー種牛、
スイスよりブラウンスイス種牛を輸入
1902
- バターの市販開始
- 育馬事業開始
1903
- 本部事務所 建設
1905
- 旧耕運部倉庫 建設
- 天然冷蔵庫 建設
1907
- 一号サイロ(右) 建設
1908
- 本部第一倉庫 建設
- 玉蜀黍小屋二 建設
- 二号牛舎 建設
- 四号牛舎 建設
- 二号サイロ(左) 建設
1914
- 倶楽部 建設
1916
- 四階倉庫 建設
- 玉蜀黍小屋三 建設
- 玉蜀黍小屋四 建設
1917
- 種牡牛舎 建設
1929
- 玉蜀黍小屋一 建設
1934
- 一号牛舎 建設
1935
- 三号牛舎 建設
1936
- 乗馬厩 建設
- 秤量剪蹄室 建設
1938
- 小岩井農牧株式会社 設立
1949
- 育馬事業終息
事業の多角化
1950
昭和中期-
農場用地解放
(この年までに1,039町歩[ha]解放)
1962
- 種鶏事業本格的に開始
1967
- 観光事業本格的に開始
1972
- 緑化エンジニアリング事業開始
1976
-
乳業事業部門を分離し、
キリンビール株式会社との共同出資にて
小岩井乳業株式会社を設立
1977
- 小岩井ファームサービス株式会社設立
1992
- 鶴ヶ台牛舎完成(開放型大型搾乳牛舎)
1996
- 歴史的建造物9棟が国登録有形文化財となる
1998
- 農場商品販売事業本格的に開始
2000
平成中期2001
- ISO14001取得
- 製菓工業稼働開始
2002
- ISO9001取得(環境緑化部)
-
東京丸の内・丸ビルに直営レストラン
(現:小岩井農場TOKYO)開業
2006
- 雫石町・三菱重工業株式会社等との共同により設立した「株式会社バイオマスパワーしずくいし」の畜産バイオマス発電施設が稼働開始
2008
- 小岩井ファームサービス株式会社に農場商品販売事業を統合し、小岩井農場商品株式会社に社名変更
- 小岩井農場まきば園内に乳加工施設「ミルク館」を建設し、乳加工販売事業を開始
2010
- JR東京駅構内に「小岩井農場エキュート東京店」を開業
- 小岩井農場の一般非公開エリアを巡るガイド付きツアー「小岩井農場物語」を開始
2011
- 公益財団法人東洋文庫付属レストラン「オリエント・カフェ」の運営を開始
2013
- 鶴ヶ台牛舎新搾乳施設完成
2015
- 岩手県勢功労者表彰を受賞
2017
- 株式会社小岩井ファームダイニング設立
- 歴史的建造物21棟が国指定重要文化財となる
2020~
令和〜- 小岩井農場商品株式会社を小岩井農牧株式会社乳加工・販売事業に統合・再編(食品事業部を発足)
種畜の生産供給
岩崎久彌は、明治初年来の国策である殖産興業の一翼を担い、日本人の体位向上に資するために畜産振興を目標に定めます。種畜の生産供給(ブリーダー事業)を主とし、その餌となる作物の耕作を行なうことを(畜主耕従)経営方針としました。オランダなどから輸入した乳用種牛をもとに品種改良を開始。全国の種畜場・牧場などに種畜を供給しました。これが現在に続く、畜産事業の始まりです。小岩井農場は、海外から優秀な種畜を輸入し、品種改良を行うと共に全国に優秀な血統の牛を販売することで、日本の酪農の発展に寄与したのです。
大正13年(1924年)に輸入された種牡牛「サー・ロメオ・フェーン号」
我が国の乳業事業をリード
⼩岩井農場を語る上で⽋かせないのは、新鮮な⽜乳とそれを⽤いた乳製品ですが、これらを事業として開始したのもこの時期です。飲⽤乳、バター、チーズの製造技術の確⽴を図り、我が国の乳業事業の発展に貢献しました。
私立小岩井尋常小学校
農場の暮らし
(私立小岩井尋常小学校)
農場の経営が拡大する中で、農場員もその子弟も増え続けていきました。これに対応するため、久弥は、明治37年(1904年)私立小学校「私立小岩井尋常小学校」を設立しました。昭和25年(1950年)に公立化されるまで、全国でも珍しい農場立の小学校として、数多くの従業員の子弟が卒業しています。親子二代、三代で農場に務める卒業生も少なくありませんでした。久彌自身も小学校に深い関心を持ち、農場訪問の際は子どもたちにノートなどの土産を用意していたそうです。
宮沢賢治と小岩井農場
小岩井農場に魅せられた文学者として、忘れてはならないのが宮沢賢治です。賢治は、農場とその周辺の景観を愛し、しばしば散策しています。とくに大正11年(1922年)5月の散策の模様は、詩集『春と修羅』内の長編詩「小岩井農場」で紹介されています。賢治は、故郷岩手をモチーフとした理想郷〝イーハトーブ〝を作品の中に登場させていることでも知られていますが、小岩井農場は、賢治にとっては実在するイーハトーブ世界だったといえるかもしれません。さらに、農学校の教師でもあった賢治は、農場における石灰による土壌改良にも強い関心を示していたそうです。
宮沢賢治
みやざわ・けんじ
1896 - 1933
岩手県生まれの詩人・童話作家。花巻で農業指導者として活躍しながら、創作活動を続けた。地元岩手をモチーフとした理想郷”イーハトーブ”を舞台とした童話や、岩手の自然や農民の生活を描く詩を残している。童話「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」「注文の多い料理店」、詩集「春と修羅」などが有名。小岩井農場は、『注文の多い料理店』所収の「狼森と笊森、盗森」、『春と修羅』所収の「小岩井農場」などの作品中で、描かれている。
小岩井農場が登場する作品
童話:「狼森と笊森、盗森」「おきなぐさ」「耕耘部の時計」
詩:「小岩井農場」「秋田街道」「遠足統率」「春谷暁臥」「母に云ふ」
文語詩:「塔中秘事」「青柳教諭を送る」
童話「狼森と笊森、盗森」に出てくる狼森
昭和16年(1941年)小岩井農場産 セントライト号 日本初の三冠馬となる
サラブレッドの生産
乳⽤⽜のブリーダー事業に加え、当時の⼩岩井農場の経営を⽀えたのが、競⾛⾺の⽣産を核とする育⾺事業です。イギリスから輸⼊された優秀な種牡⾺から⽣まれた⼩岩井農場の競⾛⾺たちは、昭和初期に創設された⽇本ダービーをはじめとする戦前の競⾺界で燦然たる成績を挙げています。育⾺事業は第⼆次世界⼤戦後に終息しますが、⼩岩井農場が残した名⾺の⾎脈は、全国に散らばり、現在も数多くの活躍⾺を出し優良馬を輩出し続けています。
農林畜産業を基軸とした多角的展開
第二次世界大戦後、GHQの占領政策のため、農場用地約1,000ヘクタールを解放するとともに、経営の重要な柱のひとつであった育馬事業を廃止しました。この経済的打撃は大きかったのですが、後に多くの事業に挑戦するきっかけともなりました。戦後の経済復興とその後の高度成長の時代にかけて、小岩井農場は農林畜産業を主軸に、複合的・多角的に事業の展開を図り、現在に至っています。
ブリーダー事業から
生乳生産へ
乳牛の育種改良事業も様変わりしました。官主導とする農業政策転換に対応するため、長く事業の根幹を支えていたブリーダー事業に代わって、搾乳牛の多頭飼育による生乳の生産に注力することになります。飲用乳・バター・チーズなどの製造・販売を本格的に展開することになりました。1976年(昭和51年)には、この事業を分離し、キリンビール株式会社との合弁で小岩井乳業株式会社を設立しました。
林業の変遷
戦後、収益的に農場経営の柱となった林業は、大口需要先であった鉱山の相次ぐ閉山、外材輸入の急増という状況に対応し、資源の温存を図りつつ、環境保全・景観保全、山林の多角的機能を大切にする方針に転換しました。この林業で培った技術は、後に環境緑化エンジニアリング事業につながっていきます。
緑の文化の発信地として
小岩井農場の豊かな自然環境のなかで、環境についての理解を深めるガイドツアーを開催しています。開設以来の不断の努力によって支えられてきた広大な山林と牧草地、国指定重要文化財を含む歴史的建造物、そして山林、酪農などの生産現場に触れることで、農場が永年培ってきた本当の価値に出会えます。
To the future
小岩井農場を運営する小岩井農牧株式会社は、
1938(昭和13)年の設立以来、
日本の産業界の
発展とともに歩んでまいりました。
近年はこれまでの実績をもとに、
事業環境が激しく変化するなか
多様なアプローチを取り入れ、新たな展開にも力を入れています。
また、酪農、山林、環境緑化、観光、食品など
当社の各事業は
従来にまして「環境との共生」という重要な役割を担っています。
これからもお客様に幸せをお届けし続ける企業でありたいと考えています。